歴史の偶然から東西文化の交差点となった長崎には、日本のどこにもない、独特の文化が生まれた。
この港町のある寒い朝、私は電車に乗り、歴史の道、寺町通りへ向かった。
寺町通りのなかほどにある大音寺は、少なからずベトナムとの縁があるという。背後には、山肌を覆うように数千、数万という古墓が並ぶ。数百年前の、貴族や侍たちの骨が葬られている墓だ。「ベトナムのとある王女の墓がある」私がここにやってきたのは、名古屋の老友にこんな話を聞いたからだ。
その王女とは阮氏2代目の王・阮福源(グエン・フック・グエン/1563?1635)の娘、1619年、当時交易で名を馳せ、武士の血を引いた傑出した航海者であった荒木宗太郎と結婚し、長崎に嫁いだ女性だ。
長崎でも大きな寺である大音寺は残念ながら1959年の火事で全焼し、再建されたものの、もはや昔のような姿は残していない。
寺務所を訪ね、墓の場所を聞いた。管理人の女性は親切に案内し、そしてすばやく、荒木家の墓について記した資料を印刷してくれた。墓は、「長崎市指定史跡」とされている。
日本人の歴史資料の保存分類、処理には頭が下がるばかりだ。わずか数分で、寺の平凡な管理人が数万という名のなかから、数百年前に死んだ1人の人間の名を探し出すのである。
案内の言葉に従い、山肌に築かれた石段を200段ほど上がる。左へ折れ、右へ折れ、家ごとにきれいに並べられた墓の間を行く。ほとんどが苔むし、石に刻まれた文字もぼんやりと褪せている。見たところ全ての墓に、「土神」と刻まれた小さな石碑がある。中国のひとつの習慣が長崎の風習にも影響したようだ。
そこに生花や香の煙のあと、行き来する人々の姿はなく、ただあるのは丘からぴゅうぴゅうと吹く風ばかり、もともとうら寂しい空間に物悲しい色が加わる。あまりにも古い先祖の墓に、子々孫々も方々に散り、もはや過去を思い出し、墓の手入れに行こうなどとは思わなくなったのだろうか。
荒木家の墓はすぐに見つかった。墓の前には長崎市によって建てられた、荒木宗太郎とその妻、日本名だろうか王加久というベトナムの王女の小史が記された説明書があった。
きっとこの地に眠っているのだろう王女の骨に、私は手を合わせ、頭を垂れた。
寺の資料を読み、荒木宗太郎についてもう少し理解を深めた。
荒木宗太郎は王加久と結婚した後、阮太郎(グエン・タイ・ラン)というベトナム名を自分でつけたようだ。王加久は長崎の人々には、漢字で書けば阿娘(アー・ヌオン)、王女と訳せるだろう「アニオーさん」という名で親しまれ有名だ。王女は1645年に亡くなっており、彼女は26年日本で生きていた。
荒木宗太郎とベトナムの王女・王加久の生涯は、人気のない墓の小史の案内書と大音寺の埃かぶった資料だけだったなら、きっと知る人も少なかっただろう。しかしこの日本とベトナムの愛の話は、出島の歴史見学の場など17、18世紀の長崎の様々な話に現れ、それは日本語と英語で説明がなされている。
日本の資料からは、王女・王加久が長崎に到着した際、遠い南の国からやってきた王族の花嫁が盛大に迎えられたことがわかる。花嫁の衣装は長崎の人々に特別の印象を残したようで、それは長崎で今も行われている祭りの出しもののひとつにもなっている。
その一方でベトナムの歴史資料には、かなたの地にある阮氏の王女の運命について、ただの一言も言及したものはない。