医学生として日本へ留学して間もない頃、彼と図書館で出会った。慌てていた私は小さな通路で彼にぶつかり、支えてくれなければ転んでいたところだった。自分のそそっかしさに顔が赤くなり、小さな声で「ごめんなさい」と言った。その人が、解剖学の先生であるなどとは、思いもしなかった。
学業は大変で環境にも慣れていなかったため、頑張らなきゃと自分に言い聞かせていた。授業が終わっても図書館で本を読み、その後学校の隣の病院へ行って日本語の専門用語を学んだ。本郷キャンパスは東京大学で最も大きなキャンパスで、そこには多くのアジアからの留学生がおり、私たちは非常に優秀で厳しい教授に師事することができた。
私の最大の難問は、彼の講義をパスできないことだった。最初、私は人体標本を見てもどしてしまった。その後、病院へ行くのが怖くなり、病欠届を出し部屋で寝ていた。
その日の午後、彼が私の寮を訪れた。すっかり怒られると思っていたのに、優しい声で「具合はどう? これが怖くてどうして医者になれるんだ。いま扱っているのは死んだ体だろう。これから君はメスを持って人命のために戦わなければならないんだぞ」と言った。
その後、私は先生から目をかけてもらうようになり、病院へ行く前に吐き気を抑える飴を渡してくれた。しょうがの香りで気分が少し楽になった。先生の目は、私に頑張れと言っているかのようだった。
毎晩深夜2時まで勉強に没頭した。すべての文献は日本語か英語のため理解するのは非常に難しい。私は先生の専門を「恐怖の殺し屋」と呼んだが、先生は私を強い人間にしてくれ、勉強を応援し、結果、その学問をそんなに「恐怖」とは思わなくなった。先生は学校にいる教授のなかで最も優秀で若い教授のひとりだった。正確な解剖知識を持って献身的に講義をし、学生に関心を持って熱心に医学の心得を説いてくれた。私は彼を尊敬し、心から慕っていた。
先生が最初に東京見学に連れて行ってくれたとき、東京タワーの展望台に立つと東京の街がまるでミニチュアのようだった。
冷たい風が吹くと、自分の長いコートで私を覆い暖めてくれた。私は先生に祖国の蓮の花やハノイ、小舟が行きかうメコンデルタについて話した。先生はいつか行くよと言った。私は先生が、ダン・ヴァン・グー先生が40年代にこの大学で学んでいたと言ったことに驚いた。私が目を丸くしていると「君が生まれた場所のことを知らなきゃならないだろ」と笑った。
あっという間に月日は流れ、私は留学課程を終え帰国した。先生から学んだこと、実際の仕事の経験は、私が多くの患者の治療にあたる際の非常に大きな支えとなっている。時が経つに連れ、この仕事が益々好きになっている。
5年以上先生には会っていないが、東京タワーで一緒に撮った写真は今も私の机に飾ってある。日本での思い出はいつも私の心にある。
そしていつも心の中で「いつ彼に会えるだろうか」と繰り返している。