ベトナム人が穏和で、礼儀正しいというのは誰も否定しないだろう。しかしながら多くの人が、おとなしく黙っていることが、これと同義だと思い違い、そしてとんだ泣き笑いの話が生まれてくるのである。
私はホーチミン市のあるレストランでマネージャーをしているのだが、従業員の採用面接を通して、ベトナムの若者達が、いつも私の言うことに頷くだけで、聞き返すことが極めて少ないという共通点があることに気づいた。
給料の話をするときでも、彼らは交渉を避け、私に決定権を譲る。金銭の話が、ベトナム文化のなかで極めてデリケートな問題であることから、話の上での誤解を避け、応募者の本当の希望を聞くために、いつも私は非常に細かく質問する。しかし9割方のケースで、返ってくる答えは「何でもいいです」というものか、またはまったくの沈黙である。
その沈黙の結果、死にそうな思いをしたことがある。トレーニング初日、名簿には5人の実習生の名があったが、実際に来たのは1人だけ。こんな冷や汗タラリの、信じられない状況に陥ったのは初めてだった。たくさんのお客様を前に、いったいどこからサービス係を見つけてくればいいのか。
その後、仕事に来なかった人たちは、給料が低いことを主な理由にしていることを知った。しかしその彼らこそが、自分の給与額について交渉をする権利を拒否したその本人たちなのである。また言っておかなければならないのが、彼らは仕事を拒否することについて、電話一本、メッセージひとつよこさないということだ。
この恐ろしい沈黙は、教室のなかでもお目見えする。私はいま、いくつかの外国語学校で教えているのだが、そこの生徒たちもまた、沈黙という共通点を持っている。
あるレッスンを終えて、「何か質問は?」と尋ね、さらに「分からなくて当たり前。何も心配しないで」と強調するのだが、私が受け取ることになるのは、微笑と、ウンウンという頷きだけ。
ホンネを言うなら私と同僚達は、延々と1人で話しつづける時間に、苦痛すら感じている。外国なら、学生達の質問や討論が途切れることはなく、教師たちも学力がどの程度なのか知ることができ、楽だろう。
しかしベトナムで私たちは、どこまで理解しているのかを知ることもできず、どうしてよいのか分からなくなる。「ベトナムで教えることで成功したいなら、心理学の修士号くらいないとダメだな」なんて冗談を言う同僚もいるほどだ。
このような沈黙こそがつつましさや礼儀正しさの表現だと言うのなら、社交に長けていることで知られる私たちフランス人も、お手上げだ。